AIR SPLASH2020を終えて
AIR SPLASH 2020無事終わりました。
思えば、十二回目ということは、干支が一回りしたということだとふと気づいた。
僕は12年前、ミュージックキャンプに5年の計を立てていた。
種をまき、芽を出し、茂り、実り、収穫する。
その考えは甘かった。とてもじゃないがそんなことではなかった。
中津江が2年目で頓挫し、その後0以下からの再スタートを切った。
上野賢治の自宅、蛍庵での地味な開催。完全に赤字になった唯一のキャンプ。
その翌年からは上野賢治の芸術村音楽監督就任に伴い、経済的には恵まれた開催となった。芸術村での作品発表のためのCreationという名目で湯涌創作の森が限りなく無料で使えたからだ。
その3年間で、湯涌創作の森の宿泊キャパシティーを超える参加者が増えたこともあり、場所を魚津へ移すこととした。
実は中津江がダメになったその年に阿部智子と魚津を訪ねた。
学びの森の柏原さん、山田さんと僕の構想を話しあった。
当時の僕たちにはまだ魚津での開催は実力不足だと感じた。

4年後、再び学びの森を訪ねた時、柏原さんは僕に、お、戻ってきたな、と声をかけた。
彼らは僕たちが力を蓄えるまでの4年間を待っていてくれた。
アーティストインレジデンス(AIR)の構想は中津江時代からずっと保ち続けていた構想だった。今思えば半ば僕は中津江ホールに「レジデンス」していたようなものだった。
当時は綾戸智恵のツアーや、自身のソロ自転車ツアーなどで全国を転々としていた。そのついでに中津江ホールで好きなように練習していた。それに集ってきたのが和田 いづみや宮本 裕子、本多千紘などのメンバーだった。
昨年からミュージックキャンプはAIR SPLASHと名を変え、文字通りタイトルにレジデンスの名前を冠した。
去年はそれがうまく機能したと思わない。その意思の統一も取れていなかった。
もちろん僕は、その意思を共有しようと思っていたが、そう簡単にそれが成し得ることではないことはわかっていた。
運営委員会ですら、その認識は希薄だったろう。GAも然り。ただ唯一上野賢治だけは僕の考えを理解している。と思っていた。

その上野賢治と今回のAIR SPLASHでは激しく口論になった。
厳密に言えば、僕が一方的に賢治をなじった。12年間の、いや自転車の旅からの付き合いを含めると2006年からの付き合いの中で、彼と言い争ったことなど一度もなかった。
参加者が流動的なAIR SPLASHにおいて、それがその中でのLIVE SPLASHのクリエイションであるというスタンスと、AIR SPLASH自体が作品であるという我々の意思と想い、それでいてLIVE SPLASHという、AIR SPLASHという作品の中での一瞬の「きらめき」の時間を、それに直接参加するしないに関わらず「作っているのだ」という意識を育むこと、その思いを上野賢治と共有できていないと思った。だからなじった。
いや、彼は絶対に理解していただろう。わかった上で僕の一番言われたら嫌なこと、一番悩んでいて腐心している点に踏み込んだ。
推測に過ぎないが、賢治には賢治の意図があったと思う。それが何かは今の僕には明確にはわからない。

12年も続けてできるようになったことはたった一つかもしれない。
それは、ミュージックキャンプが、AIR SPLASHが、何なのか?
それをほんの少しだけ可視化し、言語化することが、ようやく出来かけている。
12年を振り返り、最初の2年はオープニングセレモニーだった。
金沢で始まったミュージックキャンプはその4年間で芽を出した。
魚津に来てそれがどうやら「木」らしいということが見えてきた。
そして、一回りした今、「木」であることが明確になった。
来年から茂らせ、実らせ、収穫することが、できるのだろうか?
きっと出来るだろう。
ただこの12年の経験でわかったことがある。
それは、「何かを為すには自分が思っているよりももっと時間がかかる」ということだ。
100%の善意によりAIR SPLASHは運営されている。
協賛者の善意、運営委員会の善意、学びの森の善意、そしてゲストアーティスト含む参加アーティストの善意。
持ち寄られた贈与、知性を持ち寄り分かち合う。
そういう言葉が、具現化した12年目だったと思う。
にはたづみプロジェクト代表
中村 真
